手作り原木椎茸

オガ屑・チップなどではなく 櫟の原木にこだわり 昔より伝えられる製法で すべて手作業により生産しています
原木の伐採から初収穫まで2年以上かかります その他櫟林の管理など毎年行います
山間地の作業は大変ですが よりよい椎茸を作るため頑張っています
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手入れされた里山の櫟林
晩秋 10〜15年で伐採
2月 ほだ木を作ります
3月 種駒を入れます
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2夏 櫟伐採地に伏せ込み
稲刈り後ほだ場に移動
成長を待ちます
大きい物から順次収穫
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一つ一つ手で摘みます
灯油バーナー乾燥機で乾燥
選別して袋詰め
皆様のお手元に届けます

椎茸栽培の元祖・源兵衛

日本で初めて椎茸の人口栽培を始めたと伝わるのは 豊後国佐伯藩の源兵衛(津久見市)である
約380年前の寛文の頃 家業の炭焼において原木の残り木に椎茸が生えているのを発見し
苦心して鉈目式椎茸栽培法を生みだした
以来 津久見地域を中心とした多くの人々が椎茸栽培に携わり また県内外の椎茸原木があり
且つ栽培に適した地方へ出かけて椎茸栽培をした 彼等は「豊後なば師」と呼ばれ
各地方において椎茸栽培の先達として活躍したと伝わっている
椎茸の人工栽培はその後も試行錯誤を加え 漸く20世紀に確立されたが
永い間 鉈目に植菌する方法が取られていた
現在のような種駒方式は 昭和18年(1943)森喜作が考案した
「くさび型木片にシイタケ菌を純粋培養した種駒による栽培」により人工栽培技術は確立され
第2次大戦後に普及し始めたが 高度成長期にエンジンチェーンソーや椎茸ドリルなどの採用によって
省力化が図られ飛躍的に普及した  現在クヌギの原木を使うが その他の「どんぐりの木」でも
栽培はできる また 菌床栽培法も考案され 隣国中国では多くがこの菌床栽培方法で生産を行っている
椎茸は気候による成長度合いの違いから 肉厚で笠が開ききっていない冬磨iどんこ)が良いとされ
特に笠の表面に亀裂模様のあるのを「花冬磨vと呼び珍重されている
その他 薄手でかさが開いている 香信(こうしん) 両者の中間的存在の香磨iこうこ)などある
また 生産者の間では  季節により春磨E秋魔ニも呼ばれる
大分地方では椎茸を 一般的に「茸(なば)」という
乾燥椎茸では大分県が 生椎茸では徳島県が日本一の生産高を誇る

たたら製鉄と椎茸

奈良時代・平城京の昔より天然の椎茸は 高温多湿の気候で森林資源が多い日本から中国への
輸出特産品であった 今でも英語・フランス語・オランダ語では 日本語の「シイタケ」で表音され
呼ばれている 特に乾燥した椎茸はグルタミン酸やグアニル酸が多く含まれ 仏門における精進料理には
動物性のアミノ酸に代わる「ダシ」として欠かせないものである
また日光に当て干すことによって ビタミンD2の含有量も増えることから 漢方薬では
香蕈(こうしん)という生薬となり 中国や日本では貴重な高級品として扱われてきた
しかし本来 古代の中国で採取されていた椎茸が なぜ日本からの輸入に頼ることになったのか
それは 大陸の樹木が採り尽くされ再生しなかったことが大きな要因なのであろうと考える
樹木を採り尽くした者たちは 製鉄に従事する「製鉄集団・たたら衆」であったと思われる
日本の新石器時代(縄文期)である紀元前1100年頃には 中国大陸で鉄の出現を見る
古代から近世初めに至るまで東アジアの製鉄は 花崗岩に含まれる砂鉄を原料とし 木炭を使い
精錬する方法がとられていた 江戸時代の「たたら製鉄」においても 鉄1200貫を得るのに
木炭4000貫を使い 膨大な森林を消費していた
低温乾燥気候の大陸や朝鮮半島では森林の再生が遅く 多くの照葉樹林帯が製鉄により失われてしまった
やがて5世紀後半の古墳時代から 「たたら衆」は照葉樹林を求めて日本へと移り
山陰安来地方において製鉄を始める 「たたら」による製鉄は良質の玉鋼(たまはがね)を生み
鋼鉄も中国への輸出品となっていく 生産豊富な鋼鉄は日本刀を始め農機具・大工道具や包丁などに
加工され 日本の中世・近世産業の発展に寄与していった 現在でもYSS鋼(安来はがね)として
世界に名をはせ ジレットのカミソリ刃も安来鋼で作られていると聞く

曹洞宗の開祖・道元と椎茸

鎌倉時代のこと やがては曹洞宗の開祖となる道元は修業のため 23歳の若さで九州博多から
中国宋へと旅立った 貞応2年(1223)宋に入国し 浙江省・寧波(ニンポー)の港で
訪れてきた一人の老僧と出会う
老僧は阿育山で典坐(禅寺で修行する僧たちの炊事係)を勤めていて
「日本からの船が着いたと聞き干し椎茸を求めに来た」と言い
道元は 「あなたのような老僧が炊事などしなくても良いのでは」と言葉を返した
そこで老僧は 「あなたは修行のことを何も解っていない」と道元を厳しくたしなめた
しかし この老典坐との対話と導きによって 道元の宗教生活の中で
一大転機を迎えることになったと伝えられている
禅により悟りを開くとされる曹洞宗では 今も 作務といって坐禅以上に日常の作業を大切にする教えがある
道元は 自著「典坐教訓」で この生活即仏法主義はこの老僧から教わったと著わしている
もし 日本で椎茸が採れなかったら 後に道元禅師と呼ばれることもなく
違った歴史を歩んでいたかも知れない
同じ話は司馬遼太郎著「空海の風景」にもあるが 道元の著書から引用した逸話だと思われる
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